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2012年10月

2012年10月19日 (金)

見えるものと見えないもの

ワタクシはラジオが大好きで、テレビを観る時間よりもラジオを聴く時間の方が圧倒的に長いという、この21世紀においてはいささか希少な部類に属する人間です。先日、過去のお気に入りのラジオ番組を録音したものを大量に入手し、近頃はデスクワークや車中などでずっと聴いている有様です。(iPhoneて素晴らしい!)

ワタクシが何故テレビよりもラジオを偏愛するのか、ハッキリした理由は自分でもよく分からないのですが、思い当るところがないわけではありません。その録音を手に入れた過去のラジオ番組というのは、ワタクシが学生時代から聴き続けていたある意味ワタクシにとっての「青春の」ラジオプログラムなのですが、それをいま聴き返していると所々で当時の自分の置かれていた状況や考えていたことなどが鮮明に蘇ることがあるのです。

「ああ、このころの自分はこんなことを考えていたなぁ」とか「ああ、この当時はクラブ活動に一生懸命だったなぁ」とか、ときには自分が机に向かって宿題しながら聴いていた情景までもが思い浮かぶことさえあります。

同じように過去のテレビ番組を観たとしても、当時の思いや情景がここまで鮮明に蘇ることはまずありません。映画や本も同様です。ワタクシは映画鑑賞も読書も大好きで、気に入った作品を繰り返して観たり読んだりすることもあるのですが、そのときに得る感動は純粋に作品に対するものでありさえすれど、そのバックグラウンドにまで及ぶものではありません。

専門家でも学者でもないワタクシには難しいことは不明ですが、おそらくテレビや映画や本は、文字や画(え)として体験した時点で心へ刻まれるインパクトが薄まっているのではないでしょうか。その点、「音」だけのラジオは想像力をかきたてるのかもしれません。さらに顕著なのは音楽です。昔よく聴いた懐メロを思いがけず耳にしたときの、あの何とも言えないノスタルジックな感覚はテレビや映画はおろかラジオの比ではありません。そういう意味で、ワタクシにとって本当に良い映画や本や音楽というのは、作品それ自体の完成度に留まらず、その奥に潜む何かをいつまでたっても思い起こさせてくれるものだと言えます。

我々はどうしても目に見える情報から物事を判断しがちです。視覚から得る情報量は圧倒的に多いわけですから、当然のことだと思います。人を判断する時もいわゆる見た目の印象が大きく影響するものですし、物を買う時にも色や形や新鮮さは選択の大きな要素です。だからこそ人は身なりを整えたり、コマーシャリズムはいかに目に触れる機会を増やすかを必死に考えるわけです。それはごく自然なことだし、決して悪いことだとは思いません。

しかし、そればっかりじゃつまんないな、という気がするのです。本当に心に残るものとは何なのか?その場の消耗品みたいなものばかりではなく、いつまでも愛されるものとは何なのか?たまにはそんなことを考えるのも悪くはないような気がするのです。それは華やかに目を引く姿かたちではなく、「音」であったり「ニオイ」であったりと、意外と地味なところにあるのかもしれません。

少なくともワタクシは目に見えるものを信じずハートで世の中を渡っていきます。

@管理人

2012年10月 2日 (火)

π

新聞の広告欄などを見ているといわゆるハウツー本といわれるものが毎日のように紹介されています。セールスランキングでもその類のハウツーものや自己啓発関連の書籍が必ず何冊かランクインしているのが常です。

個人的には全く縁のない分野なのですが、ここまで氾濫して(そこそこ売れて)いるのにはそれなりの理由があるのだと思います。自分を磨きあげたり、そのための効果的な手法を学んだりすることを求め望んでいる人(もしくは何か)が多く存在するということでしょうか。

本日の新聞を取り上げてみても、紙面に踊るのは「実行力無い新内閣」「社会保障めどたたず」「オスプレイ強行配備」「景気踊り場」などなど、暗くて不安な話題ばかりです。そんなうつむき加減の風潮の中で、個人個人が自身を磨き上げ、創造力や競争心を身に付けることでこの状況を打破していこうとする考え方が生まれるのは確かに自然な成り行きなのかなとも思います。そのためのツールとして存在する自己啓発やハウツー学習。

誰もが活き活きとして輝いた目で躍動している社会。うーん、それはそれで間違いなく素晴らしいあり方なのでしょう。文句の付けようがありません。しかし少々ひねくれたワタクシなどは、オイオイちょっと待てくれよと思ってしまうのです。文句の付けようのない話というのは大抵が胡散臭いものだとワタクシの直感が知らせるのです。

ワタクシが不自然さや違和感を最も感じるのは、そこかしこに蔓延する「リミッターカット」的なスタンスです。自己啓発ひとつにしても、四六時中あるいは永遠に自身を鍛え続けることなんて不可能だし(たとえそれが時には休みなさいという教えだったとしても)、ハウツーにしても習得できる手法にだって限りがあるだろうと思ってしまうのです。ある程度までは自己啓発やハウツーでやれるんだと思います。しかしどこかに必ず存在する壁にいざ対したときに、乗り越えようとする意思が大切なのと同様に、現実問題の限界点を見極める能力も重要だと思うのです。

なにも高い壁を見上げて立ち往生していればいいと言っている訳ではありません。ただ、可能性のないところで吹き溜まりのようにクルクル回り続けているよりも、その流れから少しだけ離れて体勢を立て直す方が懸命なこともあるのではないかと思うだけです。

冷静にシンプルに考えれば、自己啓発もハウツーも人間のやることです。人の技である以上、お腹が減ったらイライラもするし、寝不足なら効率も落ちるわけです。髪型が決まらないだけでテンションが下がったり、雨だと外へ出たくなくなったりするわけです。意思や考え方の話をしていると、こういう俗っぽい要因は些末な問題に見えたりしますが、身体や天気といった要素を軽視してはいけません。結局、最後にものをいうのはこんな単純なことなのですから。ワタクシなどは、つくづく人間て単純なものなんだなといつも思い知らされています。

自己啓発やハウツーセミナーで、聞こえや体裁の良い言葉をむさぼって限界を超えることばかりにあくせくしているよりも、今日は好天で気分がいいから仕事がはかどったのかなと感じることの方が有意義(幸せ)なようにワタクシは思うのです。

翻って考えると、モノを売るという我々の仕事にも似たような構図を見ることができます。異業種参入というのでしょうか、かつては扱わなかった品物を扱い始める企業が後を絶ちません。ビックロなどは記憶に新しいですが、我々のコンビニにおいてもおにぎりやジュースだけを売っている時代はとっくに終わってしまいました。揚げ物やおでんなど多岐にわたるファーストフード、お寿司や野菜に淹れたてコーヒー、食品以外でも書籍やCDはもちろん、チケットや保険まで手軽に手に入ります。

間違いなく便利になっています。同時にこれらの新機軸が企業としてライバルと競争していくときの武器になり、プラスαの利益に繋がっているのも確かです。しかしここでも「リミッターカット」の話を忘れてはならないとワタクシは思うのです。

πは限られているのですから。

世の中の人たちが明日からいきなり3食の食事を4食に変えるわけでもなく、読書量が倍になるわけではないのですから。衛星放送のチャンネルがいくら増えようが、観られる番組には物理的限界が必ずあります。要は単なるπの喰い合いの話です。その勝負に負けない企業努力が必要なのは当然のこととしても、πが拡大しつづけるわけではないと認識しておくことはより重要だと思います。とくに新機軸に関しては、攻めと守りとタイミングと継続性の問題が大切で、それを見誤ると必ずそのしわ寄せがどこかに現れます。ときにそれは過剰な在庫であったり、動機付けの困難な「作業」だったりと、往々にして組織の末端に出現します。

先ほどの話ではないですが、現場に近ければ近いほどそれはより現実的な問題となります。現実的な問題ということはつまり、より人間的な問題ということではないでしょうか。天気がいいから気分がいいというように、個人レベルにおいて「作業」が「仕事」になるキッカケは意外に単純なところにあるのかもしれません。上が上ばかりを見て言葉や考え方ばかりをこねくり回すよりも大切な何かがこのあたりに見えるような気がワタクシはします。それは上司が部下に掛けるちょっとした言葉とか、従業員どうしの話す昨日のテレビの話題とか、その程度のものなのかもしれません。

誤解のないようにですが、ワタクシは成長や上昇を否定しているのではありません。競争を投げ出しているつもりもありません。ただ、巷で垣間みるいろいろな方法論に触れるにつけ、「人間てそんなに上等な(ややこしい)もんかなぁ、もっと単純なもんちゃうん」と感じてしまうだけなのです。見回すと、そう感じるヒントがたくさん転がっています。

@管理人

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