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2012年5月

2012年5月29日 (火)

あいまいみい2

前回、会議を例に挙げ「ファジー」なスタンスというのも、ときにはアリではないかと書いてみました。「会議を円滑に運び有意義なものにするためには」という視点での話でしたが、ここで一つの重要な問いが浮かび上がります。本日はそのことに触れてみたいと思います。

鋭い方は既にお察しかもしれませんが、それは「では、会議がスムースに進行すればそれでよいのか?」という根源的な問題です。皆が波風たてずそこそこの妥協感をもって最大公約数的な統一見解を導きだし、会そのものが円満に丸く収まれば、それで会議の目的は果たされたと言えるのかということです。

当然ながら、それは間違ったあり方であるとワタクシは思います。これではまるで会議のために会議を行っているようなもので、決して建設的であるとは言えません。どんな工程を経ようが、最終的に導き出される結論(方向性)が社にとって有益でなければならないという大原則は絶対に無視することはできないのです。

例えば、会社がある目的地を目指すとします。北に進路をとるべきだと主張する社員もいれば、西に進路をとるべきだと考える社員もいます。前回の話では、このような場合に各々が自己主張するばかりではなくファジーな感覚をもって、あるいは「おとしどころ」を意識して「それなり」の結論を見出すべきだと申し上げました。北に行きたいという気持ちも分かるし、西に向かいたいという気持ちもよく理解できる。しかし総合的に判断して、ここは一旦「北西に進路をとろうではないか」ということです。あいだをとるというやつですね。

このように「北西に進路をとる」という結論が出た場合はよいのです。多少の遠回りにはなるかもしれませんが、ある程度コンセンサスのとれた方法で目的地を目指して進むわけですから。ところが、北に向かう、西に向かうという考え以外に、南へ東へ、あるいは北東、南西、南南西・・・という主張が噴出した場合はどうでしょうか。これはかなり難儀な事態です。

ある想定以上に主張が噴出すると、たいていの場合会議は一つのスパイラルに陥ります。議論にまとまりがなくなり収拾がつかなくなっている間に、本論とは全く関係のない話で時間を浪費してしまっているというアレです。こうなるとファジーな方向性すら導きだすことが不可能になってしまいます。そしてそれは結果的に最もたどり着いてはいけない「おとしどころ」に帰結してしまいます。

つまりそれは、丸く収めたいがあまり「進路をとらない」という結論に達してしまうということです。「結論の先送り」と言い換えてもいいかもしれません。この「動かない」という判断は果たして会社にとって有益な決定と言えるでしょうか?言えるわけがありません。

どの進路を選択するのであれ進まないことには目的地にたどり着くことはありえない以上、どこかへ進むという結論は必要不可欠なわけです。(広義の意味で留まって組織力を蓄えるという場合は別にして)

ではこのように収拾がつかなくなったような場合にどう振舞うことが望ましいのでしょうか?

ワタクシはここでも「ファジー」な感覚(スタンス)というものがとても大切だと思うのです。「完璧な答えを求めないほうがうまく行くんじゃない」というスタンスです。会社には幹部といわれる課長、部長、社長がいます。メディアにはニュースキャスターや評論家、学者、芸術家が登場し、国家には政治家や官僚が存在します。みんな、分かったようなことをしゃべり、分かったようなフリをしていますが本当にそうなのでしょうか?ワタクシが思うに、結局誰も何も分かっていないように見えます。これだけの人間が毎日毎日考えても、原発一つの是非、死刑の是非、脳死の認識、女ごころの神秘すら結論づけられないのですから。

自分の考えも含めて完璧な正解なんてないんだというある種の謙虚さをもって、それでもある程度「正解に近いであろう」進むべき方向性を導きだすことが必要であるという認識こそが、会議を本当の意味で有意義で有益なものにする秘訣だとワタクシは思うのです。各々がこのような姿勢で会議に臨み、導きだされた結論がたとえ自分にジャストフィットしなくても、あるいは100%納得できるものではなくても、その一歩を踏み出すことが結果的に会社に有益であることを信じるべきではないかとワタクシは思うのです。

同時に、このようなスタンスは一種のリスクヘッジにもなるとワタクシは思います。完璧な正解の道しか歩めないような頑固者の場合、いざ進んできた道が正解ではないと判明すると(完璧な正解など存在しないわけですから)、身動きが取れなくなります。自分の考えを貫き通すことに全精力を傾けて、完全に納得したことにしか行動を起こせない人がときどきいますが、そんな人はたいていの場面で行き詰って立ち往生しています。

完璧な正解ではなく、正解に「近いであろう」道を進んでいれば、「ん?何か違うぞ」となった場合に簡単に方向転換することができます。近頃「ブレない」という言葉がもてはやされていますが、ワタクシはこの言葉が大嫌いで胡散臭さすら感じます。完璧な正解がないなかで、正解に「近いであろう」道を進んでいる限り、「ブレ」なくてはいけないのです。とてもシンプルな話だと思います。

「ある程度あいまいでブレること」、これが会社に、ひいては自分たちに利益をもたらすのだとワタクシは信じています。(今のところ・・・)

@管理人

2012年5月28日 (月)

あいまいみい

「ファジー」。こんな言葉が流行った時代がありました。最近ではシーンに登場することもほとんどなく、ワタクシみたいな古くさい人間がまかり間違って口ずさんでしまった日には相当冷やかな反応に晒されるであろうことは想像に難くありません。(あるいは若い方にはその意味するところすら分からないかもしれませんが)

当時はいわゆる「あいまいさ」みたいなニュアンスでもてはやされ、柔軟性があり状況判断にすぐれているというような肯定的な意味合いで重宝された言葉(価値観)だったと記憶しております。

ところがいつのころからでしょうか、「自己主張」とか「個性」とか、そういったある意味強靭で揺るぎないスタンスこそが大切だという考え方が社会で支配的になるにつれ、「ファジー」に代表されるようなあいまいさや柔軟性という価値観は優柔不断とか八方美人などという否定的な意味で捉えられるように変化してしまいました。

「正義」や「正論」という単語に置き換えてもよいであろうその強靭なスタンスというのはいつのまにか圧倒的に我々を包み込んでしまい、ミニマムでは友人関係から始まり学校<会社<政治、果ては外交の舞台などにおいてまでも、それはかなり「受け」のよいイデオロギーになってきました。構造改革を声高に連呼したかつての首相や近頃では公務員改革を断行する某知事が人気を集めるのは、とても象徴的なことではないでしょうか。

もちろんこの場においてそれが悪いと言うつもりではありませんし、思っていることをハッキリ主張することによる有益性や合理性を否定するつもりもありません。しかし一方で、その「ファジー」なスタンスというのも、実はそれほど悪いものではないんじゃないかとワタクシは言いたいのです。

他の会社同様、秀静でも定期的に「会議」が開催されます。社内だけではなく、本部の方々あるいは他のオーナー様の会社組織との会議が催されることもあります。実はこの「会議」というのが相当なクセモノで、すべての会議を毎回有意義に行えているかというと正直ワタクシにはそう断言できる自信がありません。

有意義ではない会議とはいったいどんな会議か。ワタクシが思うにその筆頭はまず「結論の出ない会議」ではないでしょうか。「長い(だけの)会議」と言い換えても構いません。そのような会議をこれまで何度経験してきたことか。

どうしてこうなってしまうのでしょうか。ワタクシ自身を含め参加者の準備不足という初歩的な問題が一因であることは言うまでもありませんが(反省)、もっと根本的な原因があるような気がするのです。

そもそも意見や考えや経験を異にする複数の人間が集まっている以上、一つの結論を導くことはそう簡単ではないはずです。ましてや「主張」とか「主義」とか、そういった「主」が前面に押し出される(ことが推奨される)場合には、コンセンサスを得ることなんてほぼ不可能だろうとワタクシは思ってしまいます。

以前、「会議では自分がどう考えるかを第一義にするのではなく、クライアントがどう思うかをまず考えよ」という話を聞いたことがありますが、非常にスマートなスタンスだとワタクシは思います。皆が皆、自分の考えや自分の信じる正義や正論を大声で「主張」しだしては、そらまとまるものもまとまらんでということです。シンプルな話です。

そういう意味で「ファジー」というのは実によくできた「態度」だと思うのです。一見、いわゆる「日本的で」「裏表のある」「腹黒い」処世術のような印象を受けますが、やはりこれはこれで「うまくやるコツ」なんだと思います。勝ち負けを競うことが会議の目的ではなく、それぞれの意見を集約し錬金した上で統一した見解を示すことがその目的である以上(少なくともワタクシはそう考えています)、主張一辺倒のその意識を一度振り払うことが会議を有意義にする秘訣だと思うのです。

「おとしどころ」とはよく言ったもので、最終的に成果を手に入れる人というのは、どんな場面でもこの「おとしどころ」がよく見えている人だとワタクシは思うのです。

実際のワタクシはといえば、その「落とし穴」にいつも落ちてしまうのですが・・・

@管理人

2012年5月15日 (火)

優勝

先週末、ワタクシの大好きなサッカーのイングランドプレミアリーグ最終節の試合が開催されました。

スカイブルーのユニフォームを身にまとったそのチーム、勝てば優勝という状況で迎えた最終ゲームでしたが、1点ビハインドのまま後半ロスタイムを迎えます。このままでは例年通りに同じ街の赤いライバルチームに優勝をかっさらわれてしまう絶体絶命の状況。しかし、その残りたった5分間に奇跡が起こりました。その青いチームは、なんとこのロスタイムに2得点をあげ、大逆転優勝を決めてしまったのです。

同じ街に本拠を構えるこの赤と青の両チームですが、リーグ100年の歴史のなかで常に盟主としての座に君臨し続けてきたのは赤のチームのほうでした。青のチームは1部と2部を行ったり来たりするような、いわば弱小チームで、ライバルとは言いつつもその実力の差は埋めようもないほど歴然としておりました。

ところが、ここ20年ほどの世界のサッカー界のビジネス化、要するにマネーが物をいう時代になったことにより、様相が変化してきました。時間をかけて選手を育てることなく、大金で優秀な選手を買い漁り、強いチームを作ることが出来るようになったわけです。

その青いチームも例に漏れず、5年ほど前に中東の大富豪オーナーがこのチームを買収してからはメキメキと力を付け、今や世界一裕福で実力のあるチームと呼ばれるまでになりました。そしてついに今シーズン、最終節でその宿敵の赤いチームを振り切っての劇的なリーグ優勝を成し遂げたわけです。

個人的にはこの青いチームも赤いチームも全然好きではないし(いうか、大嫌い)、金満チームが勝利を買うというそのサッカー界の構図も受け入れ難く思っているワタクシですが、今回の優勝劇を目の当たりにして一つ感じたことがありました。

それは、「最後まで諦めなければ・・・」などというクサイ話ではなく、「決めたら一気に」というココロザシの話です。

カネの力に物を言わせてビッグネームを買い漁り、なりふり構わず勝利をもぎとる姿は確かに決して美しいとは言えませんし、繰り返しますがワタクシの好みではありません。しかし、この青いチームが悠長に若手の有望選手を集めてチーム作りをするというようなことを第一義に掲げていたとしたら、果たして今回のような結果は得られていたかというと甚だ疑問であります。

「投資は一気に」。これが肝心だったのではないでしょうか。方針を決めたからには一気(スピーディ)にコトを運ぶ。

何か日常生活や仕事でも、こんなことってありませんか?これはサッカーの世界、あるいはオカネの話に限ったことではないと、ワタクシは思ったわけです。

潰れそうな銀行にチョロチョロチョロチョロ公的資金を注入する政府や、負けを取り返そうと次こそは次こそはと借金を重ねるバクチ打ちなんていうのは典型的な失敗例だと思うのです。いえ、何も背伸びして有りもしないオカネで投資を一気にしろと言っているのではありません。ワタクシが言いたいのは、「どうせやるなら小出しじゃあんまり効かないよ」ということなのです。

「決めたからにはためらわず一気に」

週末、サッカー観戦をしながらこんなことを考えておりました(笑)

@管理人

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